書を捨てず野に出るための

自律への旅の軌跡を記す予定。

個の競演より全体最適を好むわけ

幼稚園の年中くらいには、お花屋さんになりたかったらしい。
小学校2年のときは、工作でお花屋さんを作った。(余談だけど、店員はペンギンだった。当時の図工の作品にはなぜかペンギンが頻出。)

が、いつの間にか、「花より草木」に。

やはり日本庭園に目覚めたタイミングでシフトしたのか?
今も花は好きですが、園芸種よりは野生そのまんまの少し控えめな花の方が好きですね。
単品で魅せるものよりも、周囲との調和やバランスの中で光るもの、に愛着やカタルシスを感じるのだと思います。

植物に限らずなんでも、「私が!私が!」と主張しているものは苦手だ。

私の自意識の奥底には目立ちたがり屋が住んでいて、そいつのことを私はあんまり好きじゃない。自分が嫌いな自分の一部を、他の物や人の中に見つけてしまって(しかもそれが世の中に受け容れられていて)、げんなりしているのだと思う。

こうして考えてみると、「○○は嫌いで、●●の方が好きだ!」という強いこだわりは、自分の嫌いなところやコンプレックスを反映したものなのかな、と思い至ります。まだn=1だけどw

この仮説が正しいとすると、自分の内面の鎖を取り払えば、もっと自由に素直にいろいろなものを許容して生きられるのかもしれない。でもそうすると、鎖が一つも無くなったとき、「私の好き嫌い」として残るものは、果たしてあるのか無いのか?

どうなのでしょうね。